医療安全の本質を問う:がんセンターで起きた2つの重大事故から学ぶ「防げたはずの悲劇」

「がんセンター」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。最先端の治療、経験豊富な医療チーム、そして何より「安全」——多くの人がそう信じています。しかし2023年、日本の公立がんセンターで相次いで発生した2つの死亡事故は、その信頼を根底から揺るがすものでした。

重要なのは、この事故が「誰か一人のミス」では説明できないという点です。むしろ、本来なら事故を防ぐはずの複数の安全装置が、まるでドミノ倒しのように連鎖的に機能しなかった結果なのです。

本記事では、宮城県立がんセンターの「抗がん剤過剰投与事故」と、神奈川県立がんセンターの「術後チューブ穿孔事故」を詳しく分析し、そこから導き出される教訓を、KYT(危険予知トレーニング)として実践的に活用する方法まで解説します。

音声だけはこちら↓


目次

事故① 宮城県立がんセンター:「1」が「5」になった悲劇

何が起きたのか:たった1文字の入力ミスが命を奪った

2023年7月、宮城県立がんセンターで骨髄がん治療を受けていた高齢患者に、抗がん剤「ヒドロキシカルバミド」が処方されました。本来は1日1カプセル(500mg)であるべきところ、主治医が電子カルテに「1日5カプセル」と誤入力してしまったのです。

患者は誰も気づかないまま12日間、5倍量の抗がん剤を服用し続けました。その結果、白血球が激減し、敗血症性ショックを発症。さらに腸管壊死につながる重篤な合併症も併発し、同年8月13日に亡くなりました。

キーボードで「1」と打つべきところを「5」と打ってしまう——日常なら「間違えた!」ですぐ修正できるこのミスが、医療現場では患者の命を直接奪う結果につながったのです。

防御壁はなぜ全て破られたのか:3つの「止められた瞬間」

この事故の本質は、事故を防ぐべき3つの安全装置が、すべて機能しなかった点にあります。

第1の壁:電子カルテの警告機能——沈黙するシステム

通常、電子カルテは異常な処方量が入力されると警告を表示します。しかし当時の宮城県立がんセンターのシステムは、添付文書に「適宜増減」と記載された薬剤については、警告が出ない設定になっていました。

つまり、ヒューマンエラーを検知するはずのテクノロジーが、「設定の例外」という落とし穴によって無力化されていたのです。

第2の壁:院内薬剤師のチェック——見逃された異常

処方箋は院内の薬剤師も確認します。しかし、この段階でも疑義照会(医師への確認)は実施されませんでした。「専門病院の医師が出した処方だから、特別な治療なのだろう」という権威への服従バイアスが働いた可能性があります。

第3の壁:院外薬局の確認——最後の砦の崩壊

処方箋を受け取った院外薬局「仙台調剤名取店」の薬剤師は、抗がん薬が通常量を超えていることに気づいていました。しかし「治療に必要だろう」と自己判断し、医師への確認を行わずに調剤・交付してしまったのです。

この判断が致命的でした。薬剤師による疑義照会は、処方プロセスの「最後の砦」として法的にも位置づけられています。その砦が、思い込みとコミュニケーション不全によって崩れ去ったのです。

実際に行われた再発防止策:精神論ではなくシステム変更

事故後、宮城県立がんセンターは以下の具体的対策を実施しました。

  1. 電子カルテの強制停止機能:「適宜増減」の薬剤でも、上限を超える処方では警告画面が表示され、理由入力と再確認なしには先に進めない設計に変更
  2. がん専門薬剤師による外来チェック体制:院外処方箋の確認を、カルテ記載と照合できる専門薬剤師が担当する体制へ移行
  3. 主治医制からチーム制へ:複数医師で相互確認できる体制を構築

注目すべきは、これらが**「注意しましょう」という精神論ではなく、システムとプロセスの具体的変更**である点です。


事故② 神奈川県立がんセンター:チューブが十二指腸を貫通した4日間

何が起きたのか:標準的な手術後に起きた致命的合併症

2023年9月4日、神奈川県立がんセンターで食道がんの60代男性患者が、胸腔鏡下食道亜全摘術(食道を切除し、胃で再建する手術)を受けました。術中、栄養補給のために直径約3mmの腸瘻チューブが体内に留置されました。

しかし術後2日目(9月6日)、採血データに異常が現れ、CT検査を実施したところ衝撃的な事実が判明します。留置したチューブが十二指腸を約20cm貫通していたのです。

チューブから投与された栄養剤が腹腔内に漏れ出し、重篤な腹膜炎を発症。緊急手術(開腹洗浄ドレナージ)が行われましたが、患者の状態は改善せず、術後4日目の9月8日に敗血症性ショックと急性呼吸不全で亡くなりました。

この事故が問いかける「別種の難しさ」

宮城の事故が「入力ミス→チェック不全」という比較的分かりやすい構造だったのに対し、神奈川の事故は以下の点で異なる性質を持ちます。

低頻度だが致死的な合併症リスク

執刀医は同様の手術経験が豊富でした。つまりこれは、個人の技量不足では説明できない事故です。標準的な医療手技にも、低確率ではあるが発生すれば致命的なリスクが内在していることを示しています。

術後モニタリングの課題:「いつもの変化」か「致命的な兆候」か

採血データの悪化から穿孔発見まで時間を要しました。術後の患者は多かれ少なかれ何らかの変化を示します。その中から「これは致命的な合併症の兆候かもしれない」と判断し、迅速にCTなどの確定診断につなげるプロセスが、どこまで標準化されていたかが問われます。

事故後の重い決断:手術を止める、外部に委ねる

神奈川県立がんセンターは、この事故を受けて食道がん・胃がん手術を当面中止する措置を取りました。2026年1月現在も「一時休止中」の状態が続いています。

さらに、外部の専門家を含む医療事故調査委員会を設置し、原因の徹底究明と再発防止策の検討を進めています。これは、「身内の調査では見落とされがちな構造的リスクを、第三者の目で明らかにする」という、現代の医療安全マネジメントの原則に則った対応です。


2つの事故を貫く共通構造:「スイスチーズモデル」の現実

多層防御が同時に破られるとき

医療安全の世界では、「スイスチーズモデル」という考え方があります。チーズの穴のように、どんな安全対策にも「欠陥(穴)」が存在します。しかし通常、複数の対策(チーズのスライス)を重ねることで、穴が一直線に並ぶことはなく、事故は防がれます。

ところが今回の2つの事故では、この穴が偶然にも一直線に並んでしまったのです。

宮城の場合:

  • 医師の入力ミス → システム警告なし → 院内薬剤師チェック不全 → 院外薬局の疑義照会なし

神奈川の場合:

  • 手技に伴うリスク顕在化 → 術後の異常サイン見落とし → 診断・介入の遅れ

「思い込み」を前提とした設計の重要性

両事故に共通するのは、人間の認知バイアス(思い込み)が働きやすい構造があったことです。

  • 「専門病院の処方だから間違いないだろう」(権威バイアス)
  • 「術後の変化はよくあることだろう」(正常性バイアス)

重要なのは、「注意深くあれば防げた」と個人を責めるのではなく、思い込みが発生する前提で、それでも確認が必ず発動する仕組みを設計することです。


KYT(危険予知トレーニング)への展開:ニュースを現場の学びに変える

KYTシナリオ① 処方入力場面(宮城モデル)

場面設定:
医師が電子カルテに抗がん剤を入力しようとしている

KYTの問いかけ:

  1. 「もし入力した用量が標準から大きく外れていたら、どこで止まるか?」
  2. 「警告が出ない『例外設定』の薬剤を、現場の全員が理解しているか?」
  3. 「数字入力時の確認手順(読み上げ、ダブルチェック等)は明確か?」

対策例:

  • ハイリスク薬は例外なく「ハードストップ」(理由入力+上級医承認なしでは進めない)
  • 用量入力時は必ず「リードバック」(読み上げて確認)してから確定ボタンを押す
  • 「適宜増減」薬剤リストを現場で共有し、その場合の追加確認手順を明文化

KYTシナリオ② 院外薬局の疑義照会(宮城モデル)

場面設定:
薬剤師が処方箋を見て「この量は多い気がする」と感じている

KYTの問いかけ:

  1. 「疑義照会を『しない理由』が現場で正当化される構造は何か?」
  2. 「忙しい、気まずい、という心理的障壁をどう取り除くか?」
  3. 「がん専門病院の処方だから』という権威バイアスが働いていないか?」

対策例:

  • ハイリスク薬は疑義照会を「必須タスク化」(チェックボックスではなく記録必須)
  • 病院側に疑義照会専用の連絡窓口(直通電話、専用フォーム)を設置
  • 「疑義照会は患者を守る最後の砦」という文化を、研修で徹底

KYTシナリオ③ 術後モニタリング(神奈川モデル)

場面設定:
術後2日目、看護師が採血データの悪化に気づいた

KYTの問いかけ:

  1. 「この採血データを見た瞬間、鑑別の上位に『致命的合併症』を置けるか?」
  2. 「医師への報告タイミングと連絡方法は明確に決まっているか?」
  3. 「『様子を見る』と『即座にCT』の判断基準は標準化されているか?」

対策例:

  • 術式別・留置デバイス別に「レッドフラグ(危険な兆候)リスト」を作成
  • SBAR(状況・背景・評価・提案)形式での報告を標準化
  • レッドフラグ検出時は「即座にCT」をデフォルト対応とするプロトコル作成

KYTシナリオ④ 薬剤搬送管理(参考:千葉県がんセンターの事例)

場面設定:
毒薬指定の筋弛緩薬60瓶を薬剤部から手術室へ搬送中

KYTの問いかけ:

  1. 「搬送途中で1瓶なくなった場合、どこで検知できるか?」
  2. 「受け渡し時の個数確認手順は明確か? 一人確認か二人確認か?」
  3. 「紛失発生時の報告ルート(誰に、何分以内に)は決まっているか?」

対策例:

  • 施錠容器+封印シール使用を義務化
  • 受け渡し時は必ず二人でダブルカウント、記録に双方が署名
  • 始業時・終業時の在庫確認をダブルチェック体制に

まとめ:KYTのゴールは「注意力強化」ではなく「事故が起きない設計」

3つの事案が示す普遍的教訓

  1. 宮城の教訓: システム設定の「例外」と疑義照会の形骸化が重なると、過剰投与は誰も止められない
  2. 神奈川の教訓: 低頻度だが致死的な合併症に対し、術後モニタリングとエスカレーション(上位医師への報告・対応依頼)をどれだけ鋭敏にできるかが生死を分ける
  3. 千葉の教訓: 医療行為以前に、薬剤管理そのものが医療安全の根幹である

「人は間違える」を前提に、止まる仕組みを作る

この記事で繰り返し強調してきたのは、「個人の注意力に頼らない」という原則です。どんなに優秀で経験豊富な医療者でも、人間である以上、間違いは起こります。

真の医療安全とは、その間違いが患者に届く前に、システムとプロセスが自動的に止める設計を実現することです。

  • 電子カルテは「警告を出す」だけでなく「止める」設計に
  • 疑義照会は「推奨」ではなく「必須タスク」に
  • 術後の異常サインは「気づいた人が報告する」ではなく「報告が発動する仕組み」に
  • 薬剤搬送は「信頼」ではなく「施錠・封印・ダブルカウント」に

あなたの職場でできること

この記事で紹介したKYTシナリオを、ぜひ現場のカンファレンスや研修で活用してください。重要なのは「こんな事故があったんだね」で終わらせず、**「うちの現場ならどこに穴があるか?」**を具体的に議論することです。

医療安全は、誰か一人の英雄的な注意力で守られるものではありません。それは、組織全体で設計し、維持し、改善し続けるシステムなのです。


【公的資料・公式発表】
1) 宮城県立がんセンター「医療事故の公表について」
https://www.miyagi-pho.jp/mcc/news/iryoujiko/index.html

2) 宮城県(資料PDF)「(記者会見配布資料)宮城県立がんセンターで発生した医療事故について」
https://www.pref.miyagi.jp/documents/60523/07-2_r7-2_siryou5bessi.pdf

3) 神奈川県立がんセンター(PDF)「レベル5に該当する医療事故の発生について」
https://kcch.kanagawa-pho.jp/data/media/kanagawa-hospital/page/info/01_pressrelease_20251001.pdf

4) 神奈川県立がんセンター「検査・治療待機期間」(食道がん/胃がん手術の一時休止中表示を含む)
https://kcch.kanagawa-pho.jp/outpatient/standby.html

5) 千葉県「千葉県がんセンターにおける筋弛緩薬の紛失について(令和7年10月2日報道発表)」
https://www.pref.chiba.lg.jp/gan/press/2025/hodo-20251002.html

【報道】
6) カナロコ by 神奈川新聞
https://www.kanaloco.jp/news/government/article-1211832.html

7) 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20250804-OYT1T50206/

8) TBS NEWS DIG(tbc東北放送)
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tbc/2088494?display=1

9) 共同通信(47NEWS)
https://www.47news.jp/13232500.html

10) 共同通信(47NEWS)
https://www.47news.jp/13578056.html

11) 北海道新聞デジタル
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1219538/

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次