一宮市立市民病院で発生した、看護師による処方箋の不正発行。 このニュースは、単なる「個人のモラル欠如」で片付けるにはあまりに多くの教訓を含んでいます。
なぜ不正は実行され、そしてなぜ阻止されたのか。 その裏側には、医師法・薬剤師法という「法的な防壁」と、電子カルテに刻まれる「デジタル・フォレンジック(証拠)」という、二重三重のセキュリティが存在しました。
今回は、ニュースの表面的な事実だけでなく、医療従事者が知っておくべき「権限の境界線」と「医療安全のシステム設計」について、法的根拠を交えて解説します。
1. 事実の深層:「上限エラー」と「疑義照会」の連携プレー
まず、事案の核心を技術的な観点から振り返ります。 今回の不正発覚のトリガー(きっかけ)となったのは、「処方制限ロジック(システム)」と「疑義照会(ヒューマンチェック)」の連動でした。
なぜシステムは警告を出したのか
報道によれば、看護師が発行した処方箋は「薬の量が上限を超えていた」とされています。 多くの病院のオーダーシステム(電子カルテ)には、医療安全のために「倍量処方」や「日数制限」の検知アラートが組み込まれています。看護師が(おそらく自分が必要とする量を得るために)通常の範囲を超える入力を行ったことで、まずシステム上の閾値(しきい値)に引っかかりました。
最後の砦となった「疑義照会」の法的義務
ここで重要なのが、薬剤師の行動です。 薬剤師法第24条には、「処方箋中に疑わしい点があるときは、医師に問い合わせて確かめるまで調剤してはならない」という強力な義務規定があります。
単に「変だな」と思ったから電話したのではなく、「法的に確認する義務があるから止めた」のです。 この「疑義照会」というプロセスが正常に機能したことが、今回の最大の勝因(不正阻止の要因)と言えます。
2. 現場の落とし穴:「代行入力」と「なりすまし」の決定的違い
今の医療現場では、医師の事務作業を補助するため、看護師やクラークによる「代行入力」が日常化しています。しかし、ここには法的に越えてはならない「レッドライン」が存在します。
「操作」は代行できても、「意志」は代行できない
医師法第20条において、処方箋の交付は医師(および歯科医師)の独占業務です。 現場で混同しやすいのが、以下の2つの違いです。
- 適法な代行入力(Input Assistance): 医師が「Aさんにロキソニンを〇〇mg出して」と具体的に指示し、その指示に基づいて看護師がキーボードを操作する。これは「医師の手足」としての入力です。
- 違法ななりすまし(Forgery): 看護師が「Aさん痛そうだから」と判断し、医師に確認せずに入力・発行する。あるいは、医師のIDを勝手に使ってログインする。
たとえ善意であっても、医師の具体的な指示(意思決定)を介さない入力は、すべて「無資格診療」や「私文書偽造・同行使」などの重大な犯罪になり得ます。
今回のケースでは、自分自身の処方を行うために医師のID権限を悪用したと見られ、これは完全に「権限の盗用」にあたります。
3. デジタルは嘘をつかない:ID管理と監査ログの恐怖
「先生のID、付箋に書いて貼ってあるし、借りちゃおう」 もし現場にそんな空気があるなら、それは時限爆弾を抱えているのと同じです。
「監査ログ」という動かぬ証拠
電子カルテシステムは、「いつ(秒単位)」「どの端末(IPアドレス)」「誰のID」で操作されたか、すべてのログ(記録)を保存しています。 医療情報システムの安全管理ガイドライン(厚労省)でも、これらログの保存と定期的な監査が義務付けられています。
今回の事件で「誰がやったか」が特定されたのも、このログがあったからこそでしょう。
- 「医師は外来にいないはずの時間に入力されている」
- 「看護師の勤務端末から医師IDでログインされている」 これらはログを見れば一目瞭然です。「デジタル空間での完全犯罪」は、医療現場では不可能なのです。
4. 再発防止:現場が明日から見直すべき「3つのチェック」
この事件を教訓に、自施設の運用に穴がないか確認が必要です。
① 「便利さ」より「権限」を優先しているか?
「忙しいから全員のパスワードを『1234』で統一しよう」「共有IDを使おう」といった運用は、不正の温床になるだけでなく、何かあった時に「誰がやったか証明できない」ため、全員が疑われることになります。 IDの貸し借りは、自分を守るためにも絶対に拒否しなければなりません。
② 薬剤師への「疑義照会」を歓迎しているか?
医師や看護師の中には、薬局からの問い合わせを「面倒だ」「細かい」と感じる人がいるかもしれません。 しかし今回の事例が示す通り、疑義照会こそが医療事故や不正を防ぐ最後のストッパーです。「よく気づいてくれた」と感謝する文化が、安全レベルを高めます。
③ 「例外」が「日常」になっていないか?
「夜間だけは」「緊急時だから」という理由で、ルール外の運用(口頭指示だけの処方など)が常態化していませんか? 不正は、こうした「ルールのほころび」から入り込みます。例外運用こそ、厳格な手順(事後承認の徹底など)が必要です。
まとめ:安全は「仕組み」と「倫理」の両輪で作る
今回のニュースは、一人の看護師の逸脱行為でしたが、それを食い止めたのは「上限検知というシステム」と「疑義照会という法的義務」でした。
医療の安全は、性善説(誰も悪いことはしない)だけでは守れません。 「権限(誰ができるか)」を厳格に守り、「監査(ログ)」で担保し、「多職種(薬剤師)」でクロスチェックする。 この堅牢なシステムの中でこそ、私たちは安心して医療を提供できるのです。
参照・引用元一覧
【ニュース記事(事実関係)】
- CBC NEWS DIG:看護主任(36)が無断で持病の処方箋を発行… “上限超えの薬の量”を不審に思った薬剤師が医師に確認し発覚 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/cbc/2427960?page=2
- 読売新聞オンライン(yomiDr.):処方箋不正発行(※会員限定記事のため要旨参照) https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20250604-OYT1T50215/?catname=news-kaisetsu_news&site-view=pc#goog_rewarded
- 神戸新聞NEXT:医師IDで処方箋、看護師を懲戒解雇(※類似事例の参考) https://www.kobe-np.co.jp/news/society/202310/0016959572.shtml
【公的機関・ガイドライン(根拠法令等)】
- PMDA(医薬品医療機器総合機構):疑義照会の取扱いについて(薬食総発0430第1号等) https://www.pmda.go.jp/files/000145552.pdf
- 厚生労働省:医療情報システムの安全管理に関するガイドライン(第6.0版等) https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-isei_516407.html
- 厚生労働省:医師法第20条(無診察治療等の禁止)関連資料 https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000904066.pdf
- 日本看護協会:看護職の倫理綱領 https://www.nurse.or.jp/nursing/rinri/rinri_yoko/index.html
- 日本医師会:医療安全管理マニュアル https://www.med.or.jp/anzen/manual/anzen.pdf
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