副鼻腔炎の内視鏡手術後に失明――「見えにくい」を見逃さない医療安全の教訓

副鼻腔炎(いわゆる蓄膿症)の治療として広く行われている内視鏡手術。顔を大きく切開せず、体への負担が少ない治療法として確立されている一方で、時として重篤な合併症を引き起こすリスクもゼロではありません。

最近、この手術を受けた患者さんが翌日に「右目が見えにくい」と訴え、結果的に失明に至ってしまったという痛ましい医療事故が報道されました。このニュースに触れ、「鼻の手術でなぜ目が?」「担当した医師のミスだったのではないか?」と不安や疑問を抱いた方も多いはずです。

しかし、医療安全の世界では、起きてしまった事象に対して「誰が悪かったのか」と個人を責めても、本当の解決にはならないと考えられています。私たちが本当に目を向けるべきなのは、「どうすれば同じ悲劇を繰り返さずに済むのか」というシステムや仕組みの見直しです。

本記事では、鼻の手術がなぜ目のトラブルと隣り合わせなのかという身体の構造上の理由から、患者さんが発する「見えにくい」という小さなSOSを組織としてどう拾い上げ、命綱に変えていくべきなのかについて解説します。専門家だけではなく、患者や家族の視点からも知っておきたい「医療安全の教訓」を一緒に考えていきましょう。

! 患者の小さなSOSを見逃さない仕組み
目次

副鼻腔炎の手術後、「右目が見えにくい」という訴えがあった

2025年1月、ある市立病院で行われた副鼻腔炎(いわゆる蓄膿症)の手術後に、患者さんが視力を失うという痛ましい報道がありました。「鼻の手術をしたのに、なぜ目が?」と驚かれた方も多いかもしれません。まずは、報道された内容を振り返りつつ、この記事で考えていきたいテーマについてお話しします。

報道された事故の概要

報道によると、70代の男性が副鼻腔炎と鼻茸(鼻のポリープ)の治療のため、内視鏡を使った手術を受けました。手術の翌日、男性は「右目が見えにくい」と訴えました。しかし、本格的な治療(ステロイド治療)が始まったのは術後3日目。そしてその翌日には、右目の失明と診断されたということです。 病院側は、手術中の操作や、術後の視力低下に対する治療開始の遅れが原因だった可能性を否定できないとして、患者側と和解したと報じられています。

この記事で誰かを責めるのではなく、再発防止を考えたい理由

このようなニュースに触れると、「担当した医師の腕が悪かったのではないか」「なぜすぐに治療しなかったのか」と、個人の責任を問いたくなるのが人間の心理です。 しかし、医療安全の世界では「誰が悪いか(犯人探し)」に終始してしまうと、本当の意味での事故解決にはならないと考えられています。特定の個人を非難して終わらせてしまうと、「なぜその行動をとってしまったのか」「防ぐための仕組みに抜け穴はなかったのか」という根本的な原因が見過ごされてしまうからです。

「まれな事故」で終わらせてはいけないポイント

「たまたま運が悪かった」「めったに起こらないまれな事故だ」で済ませてはいけない重要なポイントがあります。それは、患者さんが発した「見えにくい」という言葉の重みです。 手術の翌日に起きたこの異変に対し、病院という組織全体としてどのように受け止め、どう動くべきだったのか。この出来事を教訓として、同じような悲劇を二度と繰り返さないための「防波堤」をどこに築くべきかを探ることが大切です。

内視鏡下副鼻腔手術は、なぜ目のトラブルと隣り合わせなのか

鼻の手術で目が失明するというのは、一般の感覚からすると不思議に思えるかもしれません。しかし、人間の顔の構造を知ると、鼻と目がどれほど密接に関係しているかがわかります。内視鏡を使った副鼻腔の手術が、実は非常に繊細な操作を求められるものである理由を見ていきましょう。

副鼻腔は眼窩・視神経・頭蓋底に近い場所にある

副鼻腔とは、鼻の穴の周囲にある、骨に囲まれた空洞のことです。この空洞は、眼球が入っている骨のくぼみ(眼窩:がんか)や、脳を支えている骨の底(頭蓋底:とうがいてい)、そして目から脳へと視覚の情報を送る「視神経」と薄い骨の壁一枚を隔てて隣り合っています。 つまり、鼻の奥を治療するということは、常に目や脳のすぐそばで手術器具を動かしているということなのです。

慢性副鼻腔炎の手術で起こり得る重大な合併症

現在、副鼻腔炎の手術は、鼻の穴から内視鏡を入れてモニターを見ながら行う「内視鏡下鼻副鼻腔手術(ESS)」が主流です。昔のように顔を大きく切開して腫らすようなことはなくなり、体への負担は大きく減りました。 しかし、視野が限られた中で病気の部分(ポリープや炎症を起こした粘膜)を取り除くため、隣り合っている目の周りの組織や血管、あるいは脳を覆う膜を誤って傷つけてしまうリスクがゼロではありません。これを「合併症」や「副損傷」と呼びます。

「安全な手術」でもゼロリスクではないという現実

内視鏡手術は技術が進歩し、非常に安全性の高い手術として広く行われています。しかし、顔の中の骨の形や空洞の広がり方には大きな個人差があり、炎症がひどいと正常な構造が見えにくくなることもあります。 どんなに熟練した医師が慎重に行っても、「絶対に合併症が起きない」と断言できる手術はありません。だからこそ、万が一予期せぬことが起きたときに、それをいかに早く見つけて対処するかが重要になってきます。

「見えにくい」は様子見でよい訴えではない

患者さんの訴え・症状内部で疑われる危険な状態(合併症)病院側が取るべきアクション
「見えにくい」「ぼやける」
(視力低下)
視神経の圧迫、球後血腫(目の奥に血が溜まる)など**【超緊急】**時間・曜日を問わず直ちに外科医・主治医へ連絡し、緊急処置の準備をする
「目の奥がひどく痛い」
(強い眼痛)
眼圧の急激な上昇、眼窩内への出血など鎮痛剤だけで様子を見ず、直ちに眼科的・外科的な評価(診察・画像検査)を行う
「目が飛び出してきた」
「まぶたがパンパンに腫れた」
眼窩内への出血や空気の漏れ、炎症の波及腫れの広がりをすぐに確認し、神経を圧迫しないよう減圧処置の手配をする
「ものが二重に見える」
(複視)
眼球を動かす筋肉(外眼筋)の損傷や圧迫すぐに医師に報告し、症状の記録と専門医(眼科等)の診察につなげる

手術が終わった後、患者さんは痛みや違和感など、さまざまな症状を感じます。その中で「少し様子を見ましょう」で済ませてよいものと、一刻を争う危険なサインがあります。鼻の手術後における目の症状は、間違いなく後者にあたります。

術後の視力低下は医療安全上の赤信号

副鼻腔の手術後に「見えにくい」「ぼやける」といった訴えがあった場合、それは医療機関にとって「赤信号」です。 鼻の奥で起きた出血が目の周りに溜まり、眼球や視神経を強く圧迫している可能性があります。神経は圧迫に非常に弱く、血流が途絶えると短時間で回復不可能なダメージを受け、最悪の場合は失明に至ります。「明日の朝まで待とう」という判断が、取り返しのつかない結果を招くことがあるのです。

痛み・腫れ・複視・眼球運動障害も見逃せない

視力の低下以外にも、注意すべき症状があります。

  • 目の奥の強い痛み
  • まぶたや目の周りの急激な腫れ
  • ものが二重に見える(複視)
  • 目が飛び出してきたように感じる
  • 目が動かしにくい これらもすべて、目の周りで出血などの異常が起きていることを知らせるアラームです。専門機関のガイドラインでも、こうした症状が出た場合は、時間を問わずただちに外科医に知らせ、緊急の処置を行う必要があると強調されています。

患者の一言を“緊急度の高い情報”として扱えるか

患者さん自身は、「鼻の手術をしたばかりだから、目が腫れたり見えにくくなったりするのも普通のことなのかな」と思ってしまうことがあります。また、遠慮してしまい、「少し見えにくいけれど、先生や看護師さんは忙しそうだから後で言おう」と我慢してしまうケースも少なくありません。 だからこそ、医療スタッフ側が患者さんの「ちょっと見えにくいんですが」という小さなつぶやきを、「重大な合併症のサインかもしれない」と瞬時に判断し、緊急度の高い情報として扱う組織の姿勢が問われます。

事故を防ぐ鍵は、手術室の中だけにあるわけではない

医療事故が起きたとき、どうしても「執刀医の手技」ばかりに注目が集まりがちです。しかし、患者さんの安全を守るための防波堤は、手術室の中だけで築かれるものではありません。手術の前、そして手術の後の病棟にも、重大な事態を防ぐための重要なポイントがいくつも存在します。

術前CTで危険な解剖をどこまで共有できていたか

手術の前には必ずCT画像を撮影し、病気の状態を確認します。このとき、単にポリープの大きさを見るだけでなく、「目の周りの骨が薄くなっていないか」「血管や視神経が通常と違う場所を通っていないか」など、危険な部分(リスク)を事前にしっかり把握しておくことが重要です。執刀医だけでなく、手術に関わるチーム全体でこの「危険な解剖」の情報を共有できていたかが、最初の防波堤になります。

術中に異変を疑うためのチーム内コミュニケーション

手術中は、内視鏡のモニターに映る映像を頼りに器具を操作します。もし、想定外の出血があったり、通常とは違う組織が見えたりしたときに、「何かおかしい」と立ち止まれるかどうかが分かれ道です。医師が一人で判断に迷うような場面でも、周りのスタッフが「念のため確認しましょうか」と声をかけやすい雰囲気、つまりフラットなコミュニケーションが取れる環境があったかどうかが問われます。

術後病棟での観察項目が具体的だったか

手術が無事に終わっても、安心はできません。病棟に戻った後、看護師は定期的に患者さんの状態を確認します。このとき、「なんとなく様子を見る」のではなく、「目の腫れはないか」「ものが二重に見えないか」「視力に変化はないか」といった具体的な観察項目が設定されている必要があります。この指示が具体的であればあるほど、異常の早期発見につながります。

夜間・休日に眼科医がいないとき、病院はどう備えるべきか

今回の報道のようなケースで課題となりやすいのが、夜間や休日といった「通常の診療時間外」の対応です。目の合併症が疑われる場合、専門である眼科医の診察を受けるのがベストですが、すべての病院で24時間体制で眼科医が待機しているわけではありません。

「専門医不在」は想定外ではなく、想定すべきリスク

「当直の時間帯だったから」「休日は眼科医がいなかったから」というのは、医療機関側からすれば事実かもしれません。しかし、合併症は時間を選んで起きてはくれません。夜間や休日に専門医が不在になることはあらかじめわかっているのですから、それは「想定外」ではなく、事前に備えておくべき「想定内のリスク」として扱う必要があります。

当直医・看護師が迷わないエスカレーション基準

専門医がいない時間帯に異変が起きた際、現場の看護師や当直医が「朝まで様子を見るべきか、それとも今すぐ主治医を呼び出すべきか」と迷ってしまう状況は非常に危険です。「目がぼやける、痛みが強いといった訴えがあれば、時間帯に関わらず直ちに外科医に連絡する」という、明確なエスカレーション(上司や専門家への報告・相談)の基準を作っておくことが命綱になります。

院内で診られないなら、どこへつなぐかを決めておく

もし、自院の当直体制では緊急の処置が難しいと判断した場合、「目の周りに血が溜まっているかもしれない(球後血腫など)」という最悪の事態を想定し、ただちに処置ができる専門施設へ患者さんを転送しなければなりません。「院内で対応できないなら、すぐにどこへ連絡して引き継ぐか」という次の一手(バックアップ体制)が、あらかじめマニュアル化されていることが求められます。

患者の訴えを拾う仕組みが、最後の安全網になる

どんなに高度な医療機器を導入し、完璧なマニュアルを整備したとしても、実際に体調の変化を感じるのは患者さん本人です。その患者さんの声が医療者に正確に届かなければ、すべての仕組みは機能しません。

「いつもと違う」を言いやすい説明があったか

患者さんは「手術後は痛みや違和感があって当たり前」と思い込みがちです。また、忙しそうにしている医師や看護師に対して、「こんな些細なことで呼び出していいのだろうか」と遠慮してしまうことも珍しくありません。患者さんが「いつもと違う」と感じたときに、ためらわずに声を上げやすい環境や声かけがあったかどうかが、異常を知らせる第一歩となります。

患者・家族に伝えるべき術後の危険サイン

これを防ぐためには、手術の前や術後に、「もし目が腫れたり、見えにくくなったりしたら、それは様子を見てはいけない危険なサインです。深夜でも遠慮なくすぐに教えてください」と、患者さんとそのご家族に対して具体的に伝えておく必要があります。何が危険な症状なのかを患者さん自身が知っておくことで、取り返しのつかない事態を防ぐことができます。

訴えを記録するだけでなく、次の行動につなげる

患者さんから「見えにくい」という訴えがあったとき、カルテに「視力低下の訴えあり」と記録するだけでは意味がありません。その訴えを「緊急性の高い情報」として受け止め、誰がどのように確認し、どんな治療を始めるのかという「次の行動」に直結させるシステムが必要です。記録はあくまで手段であり、患者さんを守るための行動こそが本来の目的なのです。

再発防止策は「注意します」では足りない

医療事故が起きた後、「今後は十分に注意します」「スタッフに周知徹底します」といった反省の言葉が並ぶことがあります。しかし、人間の記憶や注意力に頼るだけの対策では、必ずまた同じエラーが起きてしまいます。

チェックリストは、使われて初めて意味がある

手術の安全を守るために、WHO(世界保健機関)などが推奨するチェックリストが存在します。しかし、リストがあるだけでは安全は守れません。形だけの確認作業になるのではなく、その項目が「なぜ必要なのか」をスタッフ全員が理解し、実際の現場で声に出して活用されて初めて、エラーを防ぐ道具となります。

重大合併症を想定したシミュレーション訓練

「もし術後に視力低下が起きたらどう動くか」。これを頭の中で理解しているだけでなく、実際に当直帯を想定してシミュレーション訓練を行っておくことが有効です。誰が眼科に連絡し、誰がCTの準備をし、誰がステロイドなどの薬を手配するのか。一度でも訓練しておけば、本番での動き出しのスピードは格段に上がります。

ナビゲーション機器や専門施設紹介をどう判断するか

解剖が複雑な患者さんや、過去に手術歴がある難易度の高いケースでは、手術中に器具の位置を正確に把握できる「ナビゲーションシステム(コンピュータ支援手術)」の使用が推奨されます。自院にそうした設備がない場合や、対応が難しいと判断した場合は、無理をせずに専門施設へ患者さんを紹介するという判断基準を明文化しておくことも、重要な再発防止策です。

個人の反省ではなく、システムの穴をふさぐ

医療安全の世界には「Just Culture(公正な文化)」という考え方があります。これは、ルールを無視した無謀な行動は厳しく咎める一方で、人間がどうしても起こしてしまうエラーについては個人を罰せず、「なぜそのエラーが起きてしまったのか」というシステムの穴を見つけて改善していくという考え方です。一人の医師を責めて終わるのではなく、組織全体で穴をふさぐ努力が求められます。

この事故から医療機関が学べること

一連の出来事は、決して特定の病院だけの問題ではありません。内視鏡手術を行う全国のどの医療機関でも起こり得る課題として受け止める必要があります。

手術のリスク説明は、合併症名を並べるだけで終わらせない

手術の同意書に「失明のリスクがあります」と文字で書かれているだけでは、本当のリスク説明とはいえません。「どのような状況になったら危険なのか」「そのとき病院はどう対応するのか」まで踏み込んだ説明が必要です。

術後の異変対応を「誰が・いつ・どこへ」まで決める

「様子がおかしければ連絡する」という曖昧なルールではなく、「術後〇時間以内に視力低下の訴えがあれば、ただちに当直医が診察し、眼圧上昇が疑われれば〇〇病院へ緊急搬送する」といったように、対応の手順を「誰が・いつ・どこへ」というレベルまで具体的に決めておくことが必要です。

患者の声を安全文化の中心に置く

医療安全の主役は、医療従事者だけではありません。「見えにくい」という患者さんの小さな声を、医療システムを動かす最大のスイッチとして機能させること。それこそが、病院全体で安全文化を育てるということにつながります。

まとめ――「見えにくい」の一言を、命綱にするために

手術後の「右目が見えにくい」という訴えから失明に至ってしまった今回の報道は、私たちに多くの重い教訓を残しています。

責めるためではなく、次の患者を守るために

失われた視力は戻らず、患者さんとご家族の悲しみや苦しみは計り知れません。だからこそ、この事実と向き合い、「誰が悪かったのか」という犯人探しで終わらせるのではなく、「どうすれば防げたのか」という未来に向けた検証が何よりも大切です。

医療安全は、専門職だけでなく患者と家族も参加する仕組み

安全な医療は、医師の技術や看護師の注意力だけで成り立つものではありません。患者さん自身が「自分の体に起きている危険なサイン」を知り、遠慮せずに伝えること。そしてそれを医療側が確実に行動へつなげることで、初めて強固な安全網が完成します。

小さな違和感を見逃さない病院づくりへ

副鼻腔の手術後に限らず、どんな治療であっても「いつもと違う」「見えにくい」といった患者さんの小さな違和感は、体からのSOSです。そのSOSを見逃さず、迅速に「次の一手」を打てる病院づくりを進めることこそが、この悲しい出来事から得られる最も重要な学びなのです。

参考元

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